Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

dz6

12282023
これは私の学部時代のメルロ=ポンティからの抜き書きで『世界の散文』や『眼と精神』を経て『見えるものと見えないもの』へといたる晩年の彼の哲学を追っています。個々の「パロール/語り/言語行為」は総体的には「ランガージュ」と言ってもいいでしょう。
汎用人工知能GAIの創出に世界が激しくしのぎを削っていますが、汎用人工知能の創出は上記方向性の最重要到達点となります。しかしまさにそこから統御不能になる可能性が高いのですが。
はい。分析哲学へのパラダイムシフト戦略は植村さんが言われるような身体と言語の不可分な相即性を言語の側から完全統御していく方向性を常態化させるものだと思われます。それが現在に至るまでそして近未来に継続していくであろう方向性で貨幣や医療情報等の完全電子化はその一例です。
この様な文脈を辿るなら、「分析哲学」自体がロンドン/The Cityを中枢とするグローバルレベルの政治戦略であり社会実験だったということになる。その頭脳または指令塔が王立国際問題研究所/チャタムハウス(対外的にはオックスフォード大学)である。
まさにその通りですね。「行為遂行による構築性」パラダイムと「分析哲学」の起源に位置する『言語と行為』のオースティンは大英帝国の地球規模の狙いを遂行する対外諜報機関MI6の出身でした。だからこそ新たなパラダイムを仕掛けられた。今こそ大文字の政治をためらいなく直視すべき時ですね。
つまり「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?/「この《傍点》現実が夢かもしれないとはなぜいえないのか?」という「二重性/相互反転性」は、「(同様に二重化した)この<私>/《私》の記述」の次元では「形式/様態」として位置づけられる。
言い換えれば、「無内包の現実性の<力/働き Aktus>それ自体のコア領域に出現する――この<私>とこの《私》の同時出現とその破綻の無限反復という形式」となる(以下続く)
永井均氏の「存在したりしなかったりすることができる」(「できる」に傍点)は入不二基義氏のツイートにおけるキーワード「往還相」に対応すると思われる。恐縮ながら私自身の表現/コンセプトなら「不断に相互反転/振動する運動次元」または「不断に反転/振動する運動性という力/働き」になる。
12272023
「査読者も実は最初から政治的に振る舞い、投稿者もそう理解したがゆえに同様に振る舞った」→完璧に要約されているが明確に予想されていたことだとはいえ最初から特定の(グローバリズムが推進する非常に強力な)政治的空間しか用意されていなかった。今ここにある我々の現実を高密度に凝縮した出来事
一昨日25日に『新紀要』来年春号掲載に向けた『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』「序論」改訂版を谷口一平氏に添付ファイルにて送信しました。ご確認ください。
12262023
この《政治》こそ、私が示唆した政治的リスクの核心である。再び谷口氏の言葉で言い換えれば「「有意味性を欠いたままで「性同一性」概念を「性自認」概念に置き換えようとしている」というのも、まさにその通りで、そうだと私は指摘しているのですが、その指摘の何がまずいのでしょうか?」になる。
肝中の肝が「「「性自認」は「性同一性」と同じ意味」というのは、政治的主張です。政治的主張によって個別論文の妥当性を検討するのは、査読者としての資質を欠く」だが、まさにここに「性自認」へと「性同一性」を還元されたものとして消去しなければならないという《政治》が露呈している。
上記「統制的理念/原理の図式」は、私が20歳のときに富松保文氏のアパートで彼に言った言葉にすれば「言語分節(公理系)の公理」となる。彼は「そうだよ。わかってんじゃん」と返した。あまりにも懐かしい思い出だな(笑)
しかし花村誠一氏だけあって(おそらくその場にいた元厚労省技官を含む数人の講評者たちの中で彼だけが)私の研究の方向性が孕む本当の狙いとその射程についてクリアな直観があったのだろう。でなければあれだけのインテリジェンスを備えた人間があの様に血相を変えて感情的になるのは理解できない。
グローバルな政治に抵触するファクターに関する危惧を読み取るものだった。私はその記憶を抱きながら谷口氏に初めて会った日の夜(これから飲み会というタイミングで)彼が自覚的に選択している方向性のリスクについて示唆した。無論彼は頷いていた。リジェクトは残念だ。だが全てはこれから始まる。
私も嘗て全く表面的な査読や研究発表に対するコメントを何度か経験しているが(谷口氏の査読に対する議論は後に精読する)このテーマと共通するかもしれないケースとしてあえて名前を出すと花村誠一氏の「君は無責任だ!」という驚くべき政治的道徳的コメントがありそれは私の発表が含意する→
12252023
本日予定通り『新紀要』来年春号掲載に向けた『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』改訂版を谷口一平氏に送信した。
焦土作戦の野放し状態
この国では最重要の骨格である教育も政権の未必の故意的政策により潰された。大学も戦時動員体制に組み込まれた。「食」も酷い状況だが、なぜこうも政治権力によって何から何まで破壊されたのか。
現政権システム最後の切り札⇒これに対抗できるかどうかで全国民の命運が決まる。対抗できなければそこで終わり。既述のブランBが現実になる
シオニズムといった地政学的イデオロギーの実践やグローバル資本主義の発生史といった連関はオミットしますが理論的な起源のフランシス・ゴルトンがダーウィンの従兄で両人または進化論と優生主義の両者が起源から不可分だったという基本知識は押さえる必要があります。
それは学校や教科書では習いませんが近代史の深堀り勉強によりかなりの意外な著名人とともに学べます。日本人が最も不得意で鈍感な分野
「我々だけが」の「我々」はもちろん「原理主義的な優生主義者たち」の自称表現だからこそ必ず核ボタンを先に押してでも我々だけがサバイバルすることを指導理念として実践する原理主義的な優生主義者が(中東を見ればわかるが)人類全体の災厄になるし現に今その危機に我々は直面している。何とか阻止「すべき」だと考えます。
ゲーデル的に「証明不可能」安倍公房の「解」は「ともに死ぬしかない→結果はともに核ボタンを押した場合と同じ」
この場合期待値は頼りにならない(ミクロレベルでは核分裂反応の半減期/期待値)。大数の法則または中心極限定理への信はこの私の(そればかりか私たちの)サバイバルを何ら保証しない。短期的にすら。
サバイバルに関する安倍公房の/的なジレンマがあります。核戦略に関する相互確証破壊が破綻する(少なくとも破綻の期待値はゼロにできない)→これは現実性の力と自体に関するコア的なジレンマ
ええ考えてください。「現代思想」的なイデオロギーまたは主張の次元の言説が80年代以降あまりに蔓延したのはいい加減にしてほしいですね。イデオロギー自体ではなくその対象化による分析作業をしているのだが
だから「主張」の実践というフーコー的な次元で「主張」を対象化できないのかね皆さん「宗教的信念」とかいきなり持ち出して。
現にあるのでは? 我々によって「災厄」と呼ばれ得る(そして現に債や言うと呼ばれている)現実が。優生主義と概念的にも結びついているものとして。私自身はこの現実に対して「あっていい」という立場ではありませんが「あっていい(あるべき)」という立場または「主張」の実践が優生主義ですね。
「あってはならない」なんて言ってませんが。
念のため「信じる」という言葉は使っていません。
ですから神も統制的理念の図式のラスボスとして要請されているのです。私自身の立場はカントのこうしたパラダイム自体をメタレベル的に使って(カントのパラダイム自体も対象化して)マインドフルネス的に見るというものです。
もちろんこれは「目的合理性」自体の根拠付けの議論の文脈でマックス・ウェーバーにも繋がる。
これらコインの裏表を同時に見通すといった態度としてカント主義を評価すれば、それは言わば「哲学的マインドフルネス」の実践と言えるだろう。
もちろん逆の方向でのプラトニズム的な優生主義的災厄という巨大な問題が同じコインの裏表として存在する。
物理数学(とくに現代量子重力理論)には根本的にはこういう事情がある。例えば「人間原理」が極めて除去困難なこと
「〜の方向で探究すべき」という一切の研究を予め先導する「統制的理念の図式」(カント『純粋理性批判』)のラスボスとも「言うべき」ものこそ「善」なのだが。とりわけ進化論者には理解してもらわないと「社会進化論」が無自覚に優生主義に接合してしまうといった現に見られる災厄に繋がる。
12242023
何もかも終わってるね。この政権下では。
既にツイートしたように、日本が事実上敗戦が決定した国への武器の肩代わり。米英にはもう武器と資金の余剰リソースがない。
来年5月がデータベース管理統制システムグローバル化のデッドライン
紙の保険証廃止⇒マイナ保険証への一本化は、WHOが表の出先機関になっている世界システムによる全国民の医療データベース化の指令に従うもの
その結果は総て個人単位でグローバルデータベース化される。マイナ保険証の第一次的な役割
増補&訂正→「近未来中東での(現在行われている戦争状態の)予測される行き詰まりが極東での嘗て大英帝国によって仕掛けられた日清-日露戦争と同様のブランBの発動につながる可能性が高い(現政権の諸政策がそれに沿って体系的に実行されている)」
私の友人が嘗てこの別荘に関してアレックス・ガーランド『エクス・マキナ』に登場するネイサンの研究所だねと言っていたが、多分それ以上の何かだろう。
単なる別荘じゃないのは確かだな(笑)
以上のスレッドとの関連は一切不明だが、彼が唯一この日本にのみこのような「巨大建造施設」を建設したことは厳然たる事実である。
12232023
一見信じがたいことだろうが、明確な理由によってこの国日本は世界で唯一の海洋で隔離された国民全体の人体実験場に(プラン通りに)なってしまった。他ならない自国政権の承認によって。この事実を知った他の全ての国の民衆は信じられない思いでこの国と国民を凝視している。
枯渇した米英EUの膨大な資金と武器の「肩代わり」によっても日本はこのままでは(さらなる防衛大増税とともに)枯死していく軌道に入ってしまっている。そして近未来の中東での予測される行き詰まりが極東での嘗ての大英帝国による日清日露戦争の仕掛け/ブランBが始動する可能性が高い。
あくまで表に見える限りでのキーパーソン
前線基地とは長らく国全体が生物◯◯の戦略的な生産基地になっていたということ。それら殆どがロシアによって破壊され情報を抜かれた。すでに南相馬を始めとする新たな生産基地がこの国に次々に移転している。それら世界戦略の表に見える中心人物があのWindows販売企業のCEOである。
もちろんここまで大人しく手遅れに近い状況迄追い込まれる国民も他には存在しない。
他の国は総て米英イ枢軸システムから離脱している。確かにEUはNATO軍事同盟の軛が厳しいが民衆は既に目覚めている。ウクライナ戦争に引き摺り込まれ引き続いて中東のあの最悪の地獄の出現で気づいた。あらゆる政権でこの国の政権のように100パー奴隷的に言いなりになっている政権は他に存在しない。
残念ながら日本だけが逃げ切れなかったな。
元を辿れば大英帝国統制下の明治政府からだが、戦後80年もの間この政権システムを国民が存続させてきたせいでまさにディストピアSF状況にこの国は突入してしまった。現状以降のサバイバルは極めて難しい段階だ。
12222023
そのようですね。ルイス・キャロルは数学者だったわけですが、直観違いないは凄いですね。
さらに上記の限定のもとでは「存在もし得ない」というのが最重要ポイント
「それ自体」という限定がポイント
入不二基義氏のマイナス内包を現実性の固有な次元として仮定しないというのは、複素数領域を仮定しないということにアナロジカルである。つまりその現実性の仮定は避け難い。このことは、ここでは詳しい説明は省くが「〈私〉それ自体」は実在しないばかりか存在もし得ないというテーゼに深く関わる。
これは想定外ではない。日本の原発(特に福島)の「保守管理」も上記某国「企業」が担当していた(現在は不明)。
期間限定(現時点で225.7万 件の表示の元ツイートRTはリスクが大きいため伏字で転載)「XのユーザーID認証を行っている会社が〇〇〇〇〇治安当局(元ツイートには諜報攻撃部隊の固有名と説明記載)メンバーが設立した〇〇〇〇〇企業。やはりXで本人認証すると危険」
⇒『シルヴィーとブルーノ』(1889)から「手を放せば、本は床に落ちる。けれども、もしもぼくたちが皆いっしょに落下しているのならば、本だけが早く落下しようとするはずはありませんね」
『等価原理』「或る一人の人間が自由に落ちたとしたなら、その人は自分の重さを感じないに違いない(加速する座標系で生じる力は重力と区別できない)」(アインシュタイン 1907)
12212023
ルイス・キャロルはなぜアインシュタインによる着想(1907)の18年も前(1889)に一般相対論の基本原理である「等価原理」と本質的に同じ考えを『シルヴィーとブルーノ』で記述できたのだろうか? まったく不思議だ。
ごく短時間山本太郎氏と話したことがあるが、(大きな熱量を秘めていながら)まったく感情に流されることなく終始理性的に語れる人物だった。インテリジェンスレベルが高いのだと思う。
12202023
ジェームズ・クラーク・マクスウェルの超先見性とベルンハルト・リーマンの超先見性は物理数学の垣根を超えて互いに響き合うものがある。
この「補集合B」はカント『純粋理性批判』の枠組みでは「無限判断領域/nonA」に対応する。この領域の探究は現状の物理数学にとっても殆ど未知の途上分野でましてや哲学にとっては手つかずの課題にとどまっている。
12192023
学部時代「規格化された自然」という言葉を使ったら、傍らを歩いていた後に創薬研究者になった当時の友人が「どこかで聞いた様な言葉だね」と皮肉な調子で言ったのを今も覚えている。量子論の経路積分に到るまで規格化条件(確率の合計=1)は絶対の前提だが、それだけに彼の皮肉はもっともだと思う。
来年だな。汎用人工知能
ありがたいことに、2007年頃の私の汎優生主義を焦点化した論考の公開記事による批評がようやく現れた。 https://iyakukeizai.com/beholder/article/2287
12182023
メモ:36頁「ブラックホールは 素朴には無限遠方の観測者から見えない領域として定義され、その境界を事象の地平線という。これを数字的に表現するとブラックホールは「無限遠方から過去向きに発した因果的曲線からなる集合の補集合B」となる。」
12172023
「致命的な悪癖」なのは遅刻それ自体ではなくて「遅刻」という概念自体に既に初めから含まれている「約束を破る行為」だろう。
「とその同時的破綻」が最重要→「対称性の自発的な破れ」に対応する。
先のツイートに関連するが、「アプリオリ性」を「超越論性」に対して優先させてまたは切り離して解析するのが可能だという勘違いによる致命的なまずさの由来/起源は、先に述べた超越論性と独在性の不可分性(とその同時的破綻という事態)をスルーしてしまうことである。
12162023
直前のツイートを裏面から記述するとこの様になる。<超越論的自由>とその根底において関わるまたは不可分に結び付いている事態
「矛盾」とは「独在世界と共在世界を一つにまとめ(て矛盾した世界を作り出)」(永井 均氏による前掲書の解説最後の注から転載)すことという事態そのものの<働き/力>である→つまり独在性/現実性と超越論性/言語性は不可分であり、そこには<隙間/裂け目>が不可避的に組み込まれている。
12152023
永井 均氏によるトマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』新装版への解説「コウモリであることがそのようにあることであるようなそのような何かは存在するだろうか」最終頁「われわれのこの世界は現にそのように出来ており」という記述⇒「矛盾」自体が「現に可能である」という力
『序論』は『新紀要』春号に発表されるだろう。『本論』を「上巻」で区切る場合「記憶」(+〈記憶〉および《記憶》)と時間を巡る魔神ぷー氏、顔アカウント氏、晃太郎氏、谷口一平氏、みや竹氏等の幾つかの(永井均氏の記述との関連における)記述とその考察が下巻迄保留になるという残念さが生じる。
ここ半年程の状況の推移から見て、もし第4章 Interlude2 迄で区切りを付けて(「上巻」として)まとめなければ、身心ともにブレイクダウンする可能性は高い。よってその様なプランで作業する(現在はいったん作業を中断しているが)。
12132023
約25年前の予想
スーパーインテリジェンスについてのイントロダクション的な記述 Googleが発表したAI/Geminiはまだ完全な自己更新機能を持たないがその一歩手前のステップに来ていることは間違いない。予想されていたことだがこの流れはもはや止められない。
12122023
現内閣が崩壊しようとしているまさにその直前の瀬戸際でギリの強行採決――この法制化が国民にとってどれほど致命的なものだったか。致命的な法制化は特に過去二代の政権で既に無数に行われてきた。そしていよいよ来年から世界システムにおける最悪の正念場との対峙が待っている。
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』だが、概算で400字にしてあと数十枚程度で区切りを付けてまずは「上巻」または「Ⅰ」としてまとめる可能性が高い。特にこの数ヶ月非常にシビアで重要な問題に取り巻かれているため一定の区切りを付けないとブレイクダウンの可能性がある。
「因果性」というものの抜き難い道徳性――まさに根源的な倒錯ですね。
12092023
この超越論性がカントの道徳形而上学の起源
マニアックに見えるが、学にとって根底的な問題(につながっている)かもしれない。
圏論の米田の補題はホログラフィー原理と多分相性がいい。
12082023
この「実際にできる/可能である」には、その最も基底的な<次元/場>における超越論性――現に可能になるという事態それ自体の力が反響している。カントが『純粋理性批判』において語ろうとしていた超越論性とは、この現に可能になるという事態それ自体の力であるだろう。
「とみなすことができる/操作可能性」を言い換えれば、「実際にそうする(その様な対応づけを行う)ことができる/可能である」
この根源的様態の作用圏にある限り、先の「開闢それ自体の覆し/否定の<力/働き>は、そもそもの初めから自らを無限に反復し得る<力/働き>なのか? 」という問いに対する応答は、「肯定/Yes」ということになるだろう。
「現に」という「現実それ自身」または「現実性という力」のコア領域において、「副詞的に内外反復的に働く」という様態が出現する。そしてこの様態こそが、「不断の反転/振動という構造化の運動」であり、「<私>は0と1の<狭間>で不断に振動しているという究極の事態」を表現している。
12072023
ありがたいことに、昨日私が転載ツイートした問いに対するクリアな答えが得られた。やはり「現に」という現実性の力(純粋現実性の力)は、そのコア領域に出現する様態としては「(副詞的に)内外反復的に働く」ということだ。早急このツイートを本人の証言として転載引用して注記しなければ!
「完全性定理は論理的帰結関係 Γ⊨� と証明可能性関係 Γ⊢� とが一致することを述べている」→「命題がトートロジーであること(意味論)と命題が証明可能であること(構文論)は同値である」というゲーデルの完全性定理は不完全性定理より興味深い。
哲学-形而上学は、この「とみなすことができる/操作可能性」という次元/場そのものを標的とするからた。
数学の新たな領域(新たな数/演算/空間が基礎)が切り開かれるとき、必ずこの「とみなすことができる/操作可能性(対応可能性)」がその橋渡しをしている。もちろん物理にも言えるが哲学にも同じことが言える。ただし哲学-形而上学(のみ)はその領域を内側から破綻させる力を記述できる。
実はカントの『純粋理性批判』は「私たちの生活に根ざしている」
12062023
ちょっと気になったことが。「ストークスの定理の基底的レベルにルベーグ測度Sの完全加法性という定理または性質が位置する」という記述の仕方または考え方(必ずしも私がそれに現在プライオリティを置いているわけではありません)はどう評価できるでしょうか?
「米田の補題」は、「対象Aは、「Aに対してAの他のあらゆる対象Xとの関係性を対応付ける操作」とみなすことができる(「Aに対してAの他のあらゆる対象Xとの関係性を対応付ける操作」からAを復元できる)」という含意を持つ。
数学全体(数学の全領域)の指導理念=「とみなすことができる/操作可能性(対応可能性)」→もちろん圏論を含む。というより圏論こそがその理念の結晶体だ。cf 圏論のまさに最中枢に位置する「米田の補題」
永井均氏の「開闢」の問題系と入不二基義氏の「現に」という力としての「純粋現実性」の両者を巡る多数の枢要な問題系を横断する方向性の記述→鍵となる概念は「コア領域に出現する様態/形式」
12052023
執筆中の『形而上学』だが、当初は永井均氏の記述の引用とコメントが圧倒的だったところ(特に『序論』)作業につれて次第に(それまで通奏低音であった)入不二基義氏の記述の引用とコメントが浮上増加してきたのが興味深い。もちろん永井氏と入不二氏の記述はいずれも最重要なのは変わらない。
さらにもう一つの特集「身近な幾何学の世界 形との邂逅」とワンセットで探究していくと非常に奥深い未知の世界が開けると思う。
そうなんですが数の多寡の問題ではなく単体つまりN1の破壊的インパクトの強度とその効果の質が問題なんですね。また加速度的な低下をサバイブした終末論的行動化/最後のN1インパクトがあるのかないのか(そしてその多分とてつもない効果)が問題でそれは実はグローバルレベルの問題です。
12042023
そもそも自民党は宗主国はもちろん実に様々な利害集団(全体として一連のネットワークを形成)に厳しく支配/コントロールされている。また最初からその様な装置だった。
来年になりますが。
そのうちお会いしてお話ししましょう。
12032023
その問題設定を繰り返すなら「共同体の空間的条件により、または空間的条件である意味されるもの/SEが意味するもの/SAと関数的代数構造として結合しているという並列化の作用自体が空間的条件とされている」です。もちろんこれよりはるかに厳密な記述が本来必要です。
より正確には「言語と時間の問題」というより「言語と時空との関係性への問い」です。でないと月山さんの論文の問題設定と厳密に関与しないので。
個人的に思っていたことですが、もしかして10月初旬の永井さんの第3回原稿検討会で私のすぐ前に座っていた方ではありませんか? 違っていたら失礼。
私のコメントをさらにここで説明展開することは不可能ですが、基底的な水準で探究課題が接点を持つと思われますのでいずれ谷口さんなどを介して直接お話しするのも楽しいと思います。
12022023
もちろんまだ、というか諦めてはいない。日々または一刻一刻可能な限り努力を続ける。
そろそろ日本国民全員来年5月が真のデッドラインだと気づかないとゲームオーバー
12月25日に『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』改訂版送信予定です。
11292023
余談だが(詳論は省略)本論考で批判の対象となっている方向性を全面に打ち出しているのが外でもないラカンの精神分析/シニフィアンの理論である。またシニフィエを「不動点」とした「関数」あるいは「代数的な構造」の前提と衝突するのがデリダのグラマトロジー/超越論的シニフィエ批判である。
『新紀要』月山あいり氏論考の注8は示唆に富む。情報空間全体の中での「再帰しない可能性を含有する集合」としての「空集合」/「情報量を持たないもの」→「空集合の所在は情報空間全体そのものであることが知られている」
言語と時空の関係性とは共同体の空間的条件により(空間的条件である)意味されるもの/SEが意味するもの/SAと関数的代数構造として結合しているという並列化の作用だが、この作用自体が空間的条件とされている。意外ではないが、東浩紀氏の言う「共同体の同じ何か」と同水準の前提があるようだ。
『新紀要』月山あいり氏の論考結論部分:イエローのマーク箇所⇒先に予想した様に、最終的に言語と時空との関係性への問いに行き着いた。
『新紀要』谷口一平氏の作品「畛域」の印象的でメタフィジカルな記述:アリストテレス『形而上学』の記述を想起させる。
しかしこのデリダのグラマトロジーはラカンの超越論的シニフィエではなく超越論的シニフィアン理論にはさほど有効ではない。
『新紀要』月山あいり氏の論考「情報言語学序説――ソシュールを手引に」92頁迄の最重要論点:イエローのマーク箇所(とそれに引き続く部分)→本論に対して先取り的な(本論から導出可能かまだ不確定な)コメントになるが、哲学-形而上学の基本問題の殆どは言語と時空との関係性への問いに行き着く。
11282023
『新紀要』入角晃太郎氏の「水槽脳の独白」はまさに永井哲学のモデル的な(冗語的になるが)標本になっている。
ブレイクコア・クッシュ氏の論考読了。結論部のこの画像でマークした記述の論点で尽きているがこれが開始点なのでその地点をマークしただけと言える。この論点と坂本百代の私的言語論は整合しないので間の印欧祖語への探究は削除して私的言語論と画像論点を尖鋭に衝突させると何かが始まったかも。
11272023
一つのコアキーワード(この議論領域に関心がある人がすぐに思い浮かべるものではない)が清水氏と私とで一致していたな。もちろんその含意や記述の次元が一致していたというわけではないが部分的には重なると思われる。
11262023
多様体、n次元&n次元多様体&n次元球面、同相(連続的変形)、閉多様体(閉曲面)、基本群、単連結、幾何構造などの概念の概略的な理解が必要だが、ペレルマンの証明には(専門家でなければほんの概略しか理解不可能な)サーストン幾何化予想、リッチフローの理解が必要になる。
順序が逆で、基礎的概念の理解(それだけならそれほど難しくないと思われます)のあとならあのロープ回収の話は意味がありますが。
あのNHKの番組は「ボアンカレ予想」の数学の正確な理解にとっては失敗(一般的な流布の成功の代償として)だったようですね。
11242023
清水氏の論考から読み始める予定。『新紀要』全体をざっと通覧した後、清水氏論考末尾の7と8(結論)を先に読ませてもらった。文に内在する「副詞的なもの」の経験に対する超越と私の存在をリンクする視点は独創的で、私の存在の無内包性と副詞的な現実性を架橋する方向性でそれは私自身も共有する。
自覚なく無責任であるのはもちろんですが、グローバリズムの尖兵になっている「リニューアルされた資本論」のエージェント/イデオローグたちをどうすべきでしょうかね。悪しき影響が地蚤の如く広がり権力/体制と癒着したわけですが。小泉さんの苛立ちはよく理解できますが現状は更に悲惨では。
了解です。遅くとも来月中には送信しますので、来年春の掲載になると思います。現状400字でちょうど80枚です。
『新紀要』拝受しました。ありがとうございます。『序論』簡略化versionの作業は暫定的に完了しました。これを含めてデータを谷口さんに送付する目安の時期または期限がありましたら適当な折にご連絡ください。
(承前)「人工生命体を作ったり、ポストバイオロジーの分子製造にそのまま乗り出したりすることができる。」
確かにこれは深刻ですね。「十分に知的なAIは、長い間コンピュータの中に閉じこもっていることはないだろう。現代では、DNAの文字列をメールで送信すれば、研究所が要求に応じてタンパク質を生産してくれるため、最初はインターネットの中にいたAIが(以下続く)」(cf数学者による仕事の最も際立つ例が物理学の最難問アインシュタイン重力方程式の解を発見したゲーデル ヤン=ミルズ理論の楊振寧や超弦理論を進化させたM理論のエドワード・ウィッテンは実質数学者 また望月新一を除けば世界最高峰の数学者テレンス・タオはナビエ・ストークス方程式に取り組んでいる。
11232023
物理ができない数学者は存在可能なのだろうか?
同じ事態のコインの両面です。矛盾または二重性という基本ですね。
他人の二度目の死に私が意味を与えることは実は不可能なのかもしれない。
「我々人類の整合性のある外挿的意志」をAGIに実装する可能性を真剣に模索していましたが捨て去られました。ある意味で自然な流れですが。
私も2000年頃からボストロムとユドカウスキーに注目してきましたがユドカウスキーは当初はカント的なスタンスからFriendlyなAIの可能性をずっと言っていたにもかかわらず近年急激な転向ですね。
なお『序論』では2023年5月14日付の谷口さんのツイート「哲学における「実在性」は、同型対応によっては保存されない。想像上の百ターレルと現実の百ターレルの間には同型対応が存在するが、前者は実在せず後者は実在する」を転載しコメントしています(他のツイートにも『本論』で行っています)。
お久しぶりです。現在汎用人工知能GAIに関する哲学的形而上学的なスタイルになりますがかなり決定的かつ全く新たな論考(ただしメインの論考の部分ですが)を準備中です。ボストロムとユドカウスキーはもちろん主題化して論じています。また後程ご連絡します。
11222023
当然ながら現状のChatGPTの様な既存の「知識」のコピーや組み合わせではなくいまだ未知のものである「予想」の生産
ラマヌジャンが非常に興味深いことに関連するが、今後汎用人工知能GAIが(究極的にはスーパーインテリジェンスだがその前段階として)誕生した場合まずそれは「ラマヌジャン型」になるだろうという予想がある。「証明」無しにリーマン予想の様な決定的な「予想」を次々に生み出すような存在だ。
11212023
もちろん『純粋数学要覧』の中身は専門知識ではない。
数学で言えばラマヌジャンは(『純粋数学要覧』 という受験用数学公式集以外には)数学の専門知識ゼロだったと思われる。「寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた」らしいので(苦笑)
道元が『正法眼蔵』で記述していたのは無内包の現実性の世界だった、と言ってもさほど間違いではないようだ。
「遡行/想定」の「可能性」は、入不二氏が「時間の無関係相においては、「無関係な即自態」から「無関係な即自態」への非連続的な変容(ジャンプ)が認められる」(前掲書275頁)と「言う/記述する」場合に想定される「非連続性/変容(ジャンプ)」の「可能性」でもあるだろう。
より正確に言えば、「現実性」の<次元/場>の探究においては、この「外側の力」と「マイナス内包」への「遡行/想定」の「可能性」が最重要論点の一つとなる。入不二基義氏のテクニカルターム「遡行/遡り」は「想定」というタームに置換可能である。『現実性の問題』274頁には「遡行(想定)」という文字通りの置換表現が見られる。この「遡行/想定」こそ最重要論点になる(私自身にとっても)。「マイナス内包」の「想定/への遡行」が最重要論点の一つ。
その通りだと思います。しかも突拍子もないように見えてそれら道具とその機能が(出発点は無意識的な閃きでしょうが)意識的にも考え抜かれているせいか科学的にも相当程度説明可能なところが素晴らしいです。同様なことは永井豪のような類例の無いビジョナリーにはより鮮烈に見られますね。
11152023
〈超越論的自由〉を考える際に非常に興味深く示唆的な入不二基義『現実性の問題』からの全体画像②
先に〈超越論的自由〉を考える際に非常に興味深く示唆的な一文として入不二基義氏の『現実性の問題』から転載したが、それを含む関連記述の全体画像を参考までにアップする。①(②に続く)
ショーペンハウエルとカントの接点⇒絶対不可分な同時生成としての「意志の働きと身体の活動」――<超越論的自由>すなわちこの<私>の意志/身体
ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』における「意志の働きと身体の活動」を巡る先の転載箇所に続く箇所⇒<超越論的自由>は、ショーペンハウエルが『意志と表象としての世界』においてカントから継承した最も枢要な形而上学的な遺産である。
11142023
〈超越論的自由〉を考える際に非常に興味深く示唆的な一文「「内側から生きている身体」ということは、指差しの動作を行う前から、すでに【引用者注「前から」と「すでに」に原文では傍点 】身体は「これ性」の力によって貫かれている」(入不二基義『現実性の問題』239頁)
単なる視覚経験でも触覚経験でもない内的感官と外的感官が統合された感覚-統合的な時-空経験の「形式性の生成」が問われることになる。
あるいは超越論的自由
超越論的統覚/コギト この〈私〉の行為/意志/身体
11132023
経験論の立場からカントの『純粋理性批判』を批判する場合の殆どに見られる現象。
カント『純粋理性批判』を考えるに際して最もまずいことは、「アプリオリ性」を「超越論性」に対して優先させて解析する(その結果またはそれと同時に「超越論性」が見失われる)ことである。
最早グローバルシステムに猶予あるいは余裕が無くなっている→このことの恐ろしさを考え来たるべき近未来に備えておかなければならない。
この国の縮図 これから急激にそのリアルな全貌がその力の行使とともに剥き出しになるだろう。ミクロマクロあらゆる側面における既に進行中の世界戦争において、最早グローバルシステムに猶予あるいは余裕が無くなっているからだ。いよいよ本物のサバイバルステージが始まる。
11122023
https://youtube.com/watch?v=rYf8I-D-oo0…
参考 オイラーの等式→これは物自体の力の働きを記述する奇跡の等式だと考えている。
11102023
「人類はいまだに全く数のことを理解できていない」プラトンとアリストテレスの終わりなき格闘の「超越的な」凄まじさには驚く。超越数πとネイピア数e虚数iそして0と1が同時に出現する奇跡の等式→オイラーの等式には究極の秘密が隠されていると確信している。
ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』における「意志の働きと身体の活動」を巡る考察 これら両者は「一つにして同じもの」でありイデア界と現象界を一挙に架橋する次元/場であるという彼のポジションには全面的に賛同
11092023
参考『マンデルブロ集合を越えて』無限遠点と複素空間の構成& 値=点の行き先が無限の任意性を持つ
来年カント生誕300年でしたね。これ大いに活用できるかもですね。
空間の問題(取り分けその形式性の問題)は実は典型的なヨコ問題である。もちろん同時にタテ問題に(も)なるのだが。
値=点の行き先が無限の任意性を持つ
また別ですが、あらゆる任意の方向に遷移する関数があります。フラクタル幾何学関連で
直接関連するかわかりませんが、一般には直観主義で知られるブラウアーの不動点定理というのがあります。
もちろん成立の経緯を付記して。挿絵的に最終頁の画像転載をしてもいいですね。
返信先: @Tarouphoさん, @hitoshinagai1さん
それを完成迄仕上げた『形而上学 〈私〉は0と1の〈狭間〉で不断に振動している』の『序論』掲載でもよろしいでしょうか。そちらで是非お願いいたします。
それはまさに27歳時から時空の形式性の成立として考えていまして、それを現在展開する形で執筆中です。基本部分は『序論』として完成しています。
「空間の方だけに」は、私の捉え方では「〈私の意志〉によって動けるという〈自由意志〉の介入と空間(の形式性)の成立は不可分」となります。
今思えば、ここで提起されていたのは純粋理性と実践理性の中継地点における『風間くん問題』だったのだと思う。
ここでの〈私〉の対照項は把握の仕組みを欠く存在者=〈ゾンビ/他人〉だったが、不徹底さ不完全さにつながったのは、ある程度の正常性を先取りしてしまう重度統合失調症患者をイメージモデルにしてしまっていたこと。今ならそれをより高いレベルで組み込めたが当時はまだ切り分けが曖昧だった。
27歳時の草稿『内包量のアポリアとIch denke』画像最終部分
当時のカント学会で発表しましたが鋭利な質問をしたのは学会終了後のキャンパスで私に話しかけてきた中島義道ただ一人でした。後程当時の草稿の最終部分の画像をアップします。
はい。今執筆作業中の仕事はその不徹底さ不完全さを永井さんと入不二さんの最新の成果をリアルタイムに咀嚼吟味しながら構築展開するものです。僭越な言い方になりますが、究極的な到達点のベクトルはカントの〈超越論的自由〉の解体-再構築として永井さんの仕事と共鳴点が生まれるかもしれません。
11072023
ここで「私の自由な行為」とは、「〈まさにこの私の行為〉であることが、それ故〈私の意志〉によるものであることが把握されている動作」のことである。
実は27歳時に書いた内包量を巡るアポリアをテーマとした論考の結論で「カントによって導入されたアプリオリな規則という要請によって、まさにこの私の経験がそこで成り立つ限界地点が、私の自由な行為が開始する地点でもあるものとして確定された」と結論している。#純粋理性批判
なんかマックや(旧)フェイスブックと同じパターンか?
「開闢の覆し/否定という開闢」なので(開闢の)「覆し」と「否定」はワンセットです。
その場合単なる「視覚経験」ではない感覚統合的な「空間感覚」の経験の「形式性の〈生成〉」が問われることになると思われます。
入不二基義氏の『現実性の問題』を読み返しているが、氏の言う「中間」を 仏陀(そしてそれを継承した龍樹)の「中庸」と突き合わせてみると興味深い。もちろん同じ位置を占めるということではない。実践において密接にリンクするだろうということである。
神の存在論的証明とは何か――根源的な《 #道徳 》の定式 『ゼロ-アルファ』第一部断片19より https://note.com/dharmazeroalpha/n/nec1b801f1f4e…
ゾンビ的完全対称性ですが私はその対称性の「自発的な破れ」が不可避だと考えています。
顔アカウント氏には理解されたと思う。〈他者〉の謎を巡る彼のツイートを素材にした記述は断続的に作業中の仕事において核心的な位置を占めている。
〈完璧な他者〉/他の独在者という「矛盾それ自体」の出現→ただしこれも(これすら)対称性の自発的な破れに晒される。
11062023
感覚遮断実験の被験者またはそれと同じではないが筋萎縮性側索硬化症ALS患者の「空間経験」も興味深い。必ずしも空間感覚経験ではない?より基底的な?「経験」の次元として。
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』「クリプキを巡って」における東浩紀の「訂正可能性」とベンヤミンの「神話的暴力」「神的暴力」への言及箇所(部分)
11042023
しかし、この《X=AGI》という存在者は、この私/我々人間とのゾンビ的完全対称性にもかかわらず、私/我々人間と同様にそれぞれの今ここでの有限的-感性的直観の外部に出ることができないということにおいて、このそれぞれの今ここでの対称性の自発的な破れの可能性に晒されることなる。
ここで《X=AGI》とは、任意の可能的〈X〉(一般に「他人」)の概念すなわち《X》を任意の可能的AGI(汎用人工知能)と等置した存在者を意味する。この意味での《X=AGI》こそが、最大公約数的集合の機能を持った存在者として、私/我々人間とのゾンビ的完全対称性を持つものとして想定されていた。
11022023
エビデンスの力に圧服されて全くその声あるいは叫びが聞き取られない者をガヤトリ・スピヴァクはサバルタンと読んでいましたね。
聞き取れない叫びもありますね。
ある抗い難い外的な力への抗い難い抵抗としての証言または叫びのようなものは単なる自認発言とは異なると考えています。
つまり相関性がある程度以上(だと強く信じられる)ということですが裏付けるとされるデータの力は様々ですね。主観的解釈と不可分という古くて新しい科学論的な問題
一般的には根拠はエビデンス=証拠の上位概念ですがより日常言語的には主張の正当性の拠り所程度に使われてますね。
証言(紙に書かれたドキュメントを含む)は最も強力なエビデンスとされてきたものだと思います。それによる歴史自体の構築などが典型ですが。
まったくリポストありがたいです。気負うことなく頑張ります
開闢の開闢としての否定と反転図形・文字列を巡るこのところの一連のツイートは永井哲学と入不二哲学とを架橋するある〈次元/場〉に至るルートでもある。
11012023
開闢の覆し/否定という奇跡の根源的な二重性:このそれ自体の覆し/否定の<力/働き>は、そもそもの初めから自らを無限に反復し得る<力/働き>なのか?
ある特定の「反転図形」として現象する、すなわちそのつど「ウサギ」または「アヒル」どちらかの図形/意味として現象する線/純粋直観の様態の不断の振動という構造化の運動が焦点化される必要があるだろう。
でなければ、この私に「ウサギ・アヒルの図」が「ウサギ」または「アヒル」の図形として見えると同時に、その不断に振動する運動性において「ウサギ」または「アヒル」という「文字/言葉の列」すなわち「意味」をもった何かとして現象することはできない。
「反転図形」と呼ばれるものと「文字列」と呼ばれるものは、不断に振動する運動次元を共有している。
10312023
そこで位相空間論における「連続」の定義または規定が極限操作を超える普遍性(より高い抽象度)を持っているかどうかの吟味検討が必要になる。
数学の首根っこを掴まえるということはすなわち連続性(の問題)に極限操作でしか対処できないということを掴まえること。連続性と離散性の「矛盾」を含むゼノンのパラドックスへの対処も同様。だからこそ極限操作による実在性の構成自体を探究する作業が可能になる。
メモ: 口頭(ユーチューブ)でも文章でも(ともに数学の入門講義)同じことを同じ人が言っていたが、入門者が説明を聞いて特に難しいだろうと彼が予想する分野は「位相空間論(トポロジー)」のようだ。理由は抽象度の高さ。
10302023
槙野氏の「文字列が」で始まるツイートと私の返信ツイート及びそれらを素材にした一連の記述⇒パラグラフタイトル「文字列あるいは反転図形――不断の<反転>という動的な構造化の運動」の作業が完了
10272023
昨日から「文字あるいは反転図形から物自体へ」というパラグラフタイトルで槇野沙央理/Saori Makino@saoriqing氏の過去ツイートを巡る記述を僅かずつ試みているが非常に困難。
ほんの入口だが
ここ一週間で顕在的なレベルで激変
決定的な分岐点――その一方はDoomsday/終わりの日への後戻り不可能な道
これから来年にかけて世界は前代未聞の様相で激変するだろう。あまりにも様々な徴候に溢れている。
ウィトゲンシュタインとカントの狭間で反転図形を探究しているハイデガーの記述があるのだろうか? 少なくとも『カントと形而上学の問題』にはない。その著作の彼の思考に突き刺さるだろうに。ちなみにハイデガー、ウィトゲンシュタイン、チャップリン、ヒトラーはともに1889年生まれだ。
まさに直観形式または純粋直観とカテゴリー/言語的-概念的形式の〈狭間〉の問題で、あのカントもある程度または一度は遭遇したが本質的にはスルーせざるを得なかった次元の問題である。ところでハイデガーはウィトゲンシュタインを読んでいたのか?
だが圧倒的に記述速度が低下する。
いや「途方に暮れる」は大袈裟なレトリックであまり趣味もよくない(苦笑)
少なくとも一度は途方に暮れるだろう――
昨日から「文字あるいは反転図形から物自体へ」というパラグラフタイトルで槇野沙央理/Saori Makino@saoriqing氏の過去ツイートを巡る記述を僅かずつ試みているが非常に困難。
10262023
あらゆる面から見て、まさによくもミクロメゾマクロの総ての局面でこれだけの破壊行為を行ったと驚愕するが(ただしその理由は推測可能)最早立て直しは殆ど不可能
総てがこの調子の酷税搾取地獄 超ネグレクト棄民国家(実際にはそれより遥かに不味い)
根腐れ(私の友人の言葉)が極まって受け皿が無くなり、システムの一部になりきったので見えなくなりましたね。なので異端/システムからのズレだけが可視化されるのでしょう。
10252023
「受動的受肉」という畳語的冗長表現になることもあるが「受肉」(独在性の受肉/降臨と同時に実在的内包の受肉)という概念を独在論のキーワードにするのは色々と不味いのではないか?
私だけではないと思いますが、言わばマインドフルネスのように概念化/言語化されたこの私の経験それ自体を同時並行的に概念化/言語化されたものとして無内包次元で(言語化/概念化次元とは異なる次元で)記述するということです。マインドフルネスは経験それ自体を二重化する作業です。
(承前)そもそも「学」としていまだ存在していないということです。カント自身がいまだ存在していない「学としての形而上学」の構築を生涯の課題にしていました。とはいえそんな問題意識を持ち得たのは彼だけでしたが。タイムアウトです。はい。①科学というのなら原理的に不可能です。哲学のみが探究記述できます。哲学と科学のある種の架橋は可能でしょう(私の課題でもあります)。②とはいえ、詳しい説明は省略しますが、従来のまたは現存する殆どの哲学にもいまだ可能になっていません。③上記の哲学または形而上学は
ここに矛盾がありますが無論科学はこの矛盾的事態を記述することはできません。私は現に今記述していますが。
概念化不能であり同時に常に既に概念化されてしまっているという二重性を指摘してきました。
総ての科学はそうでしょうね。記憶の扱いが出発点でしたが。
二重性のメタレベルが存在しないので。
二重性は「単なる」と矛盾します。
この私の経験世界/実在する経験世界そのものを開く(開闢する)独在性の経験と(同時にそれを前提として)成立するこの私の経験世界/実在する経験世界という(またそこで成立する個々の)経験です。後者は既に言語化/概念化を経ています。また時間切れなのでとりあえずここまでで。
「経験の不可避的な二重性」ですね。永井さんの文章にも出てくる(というより永井哲学全体のキーワードでもありますが)今あと3分ほどでタイムアウトなので後に簡単に
経験の不可避的な二重性
「経験を捨て」ているわけではなくその逆だと思います。
この「そのことの形式的な可能性」という意味での「形式性」が先の一連のツイートにおける「変容/変換 transformation」の「形式性」に対応する。変換操作(またはこの〈移行-変容〉という事態の)の形式性/無内包性
「捉える begreifen」という『純粋理性批判』の最重要キーワード(の一つ)
先に述べたが、これがフロイト、ラカン、デリダ等溢れるばかりの精神分析学派/記憶痕跡派(日本では東浩紀や斎藤環等)が単なる経験論でしかない理由
映画作品論的にはEUREKAが最高傑作だというのは十分理解できますが、helplessはそうした総てが開闢されている/そうした総ての開闢そのものだという根源的な意味において。
もちろん素晴らしいですが上記の様にhelplessを超えてはいないと思います。
この「変容態」の「変容」をもし私が英訳するなら、規則/形式の形式性を重視した上で「transformation」にするだろう。だがそれでもなおtransfigurationとの二重性を完全に消去することはできない。これに関連した先日の一連のツイート(特に最後のツイート)の記述参照。
カントが『純粋理性批判』において、無内包の現実性の不可避性に気づいたと同時にそれを不可避的に隠蔽したということ(自体の不可避性)――まさにそれこそが究極の哲学的-形而上学的な問題である。当然ながら現在作業中の私の仕事全体のテーマでもある。
つい先程から車中でオリジナル草稿と対照させながら読んでいますが、「こそが」「なのである」等運用が難しい(繊細な運用が必要な)強調表現への改訂が非常に効果的になされていますね。『プロレゴメナ』注の言及を付加した点も注目点ですが、今後間歇的に対照作業を続けたいと思います。
こちらで失礼。先日紹介しましたアルフォンソ・リンギスの紹介です。アメリカにおける単独者『Foreign Bodies』 by Alphonso Lingis |永澤 護 /dharmazeroalpha #note
結局青山真治 最後までこれを超えられなかったな
この映画作品において実現していることは何もかも―この作品だけが実現/創造し得た。
10212023
上記「変換/transformation」が「形式 form」レベルに親和的と言う場合の形式性は、「リプライと議論 永井のリプライ」(『<私>の哲学をアップデートする』)において永井 均氏が「思考の実存そのものに気づく」(同 137頁)という場合の「実存」が抽出される事態の無内包性を示している。
10202023
それは、谷口氏が「A変容」という<変容>の次元すなわち「内包/実質」の次元を手放そうとしないことを示している。
参照 谷口一平氏は、「ゾンビに語りうることと、A変容」(『<私>の哲学をアップデートする』永井 均 入不二基義 青山拓央 谷口一平著 春秋社 2023年 所収)において、「A変容」という論文全体の鍵概念の「変容」を「<変容>=transfiguration」と表記している。
ここにおいて、青山氏が記述する「それらを取りまとめてやる」ことという事態の超越論的かつ超越的な「二面性」が問われている。参照 青山拓央「他者と独在性」『<私>の哲学をアップデートする』永井 均 入不二基義 青山拓央 谷口一平著 春秋社 2023年 所収 94頁
いや二箇所ではなく複数箇所
本日は久々にごく僅かな二箇所の記述を付加してまた(上手くいけば25日迄の間)中断することになるだろう。明日からまた物理的に割ける時間が殆どなくなるが、鉄則としてあらゆる意味で好ましくない睡眠不足だけは避けるので。割ける/避けるの二重性(苦笑)多忙なので実に10月7日以来執筆が中断している。
この「約2020字」とは、ようやく手掛け始めた入不二氏の記述に対するまとまった分量の「(注を除いた)顕在的な記述」の第一番目になる。
『問いを問う』の「私たち」を巡る記述を素材にした執筆中のかつての記述箇所を増補改訂した。増補改訂版の記述全体で約2020字になる。
隠されてきた地獄の釜が開いた――中東の歴史の深淵は本物の天才たちの破滅(例:ニーチェの発狂)と切り離せない。最高度の感知力を持った者たちのシンクロニシティ。「パレスチナ問題」は文字通り人類の生存の《最終的な鍵》を握っている。
10192023
2002年でもこう。逆に言えば2000年代以降の(私的に言えば)驚くべき「酷さ」
入不二基義著『問いを問う――哲学入門講義』レビューのアマゾン英訳→ 「Kiyoshi」が「Motoyoshi」であればほぼ完璧でちょっと残念だ。海外からも多くの閲覧者があるのだが。
記憶のメモ(備忘録): 皮肉な言い方になるが、グローバルリベラリズムの総本山であるハーバードとUCLAのコミュニティにもグローバリズムに飲み込まれない最良の知性を持った人物がいる。私のかつてのメンターで十数年間協働研究をした宮永國子氏がその典型例だと思っている。
しかし真の問題は、それでもtransformationとtransfigurationが二項対立にはなり得ないということである。形式/形相と質料、本質と実存が究極的には二項対立になり得ないのと同様に。
〈記憶〉と《記憶》――「記憶」は第2ステージの探究課題に見えて実は最初から循環構造の基底的な次元に喰い込んでいる。
10182023
極めて微妙で矛盾的なことを言えば、この場合の「形式」は「本質と実存」のセットで言えばむしろ「実存」の方により近い。つまり質料または内包に関わらない無内包レベルの事態。私が英語のtransformationと〈変換〉または〈移行-変容〉を対応させて表記するとき無内包レベルの事態を記述している。
英語と日本語の対応問題 ①transformation→変容または変換(特に数学の場合)「形式 form」レベルに親和的 ②transfiguration→「(山上におけるキリストの)変容」という例に見られる様に、transformationと比べて「変容」の訳語に対してより親和的と言えるかもしれない。「質料」レベルに親和的
私の母方の曾祖父の戸籍地は旧京橋区地区大鋸町⇒現在地名中央区京橋一丁目
10172023
transformatonとtransfigurationの差異は?
〈移行-変容〉と受肉
かつて河合塾駒場校で海外帰国生を教えていたので東北沢駅前は鮮明に憶えている。
まさにこの記述において「取りまとめてやる」こと自体が問われている。
「意識」を巡るどのような議論またはロジックも循環に陥るというのは哲学的議論の地平では言わば小学生レベルの常識だが、非常に高度な青山拓央氏の議論においてもその循環が炙り出されている。その指標になる記述が「それらを取りまとめてやると」。
まったくもって渋谷には色々思い出深い。
もちろんウロボロス的な終わりなき循環に入り込む。
これはまだ哲学的-形而上学的に論じられる段階にないかもしれない(古くて新しい)問題だが、デカルトは本当に「欺く神」に勝てたのかな? 〈記憶〉の深淵な問題圏に入ると中々厳しいんじゃないかな。
ほぼ毎日石神井公園エリアのマンションの一室で吟醸酒を飲んでいた昔の日々を思い出す。(現在は自宅では飲んでいない。)マンマ氏のこの生貯蔵酒『生囲い 氷点貯蔵』も大変美味そうだね。温泉湯上がりとは贅沢過ぎる(笑)
10122023
東浩紀や柄谷行人や斎藤環なども精神分析の記憶痕跡派。
とにかく記憶痕跡といった概念に頼っている時点でフロイトもラカンもデリダも駄目だね。
この飲み会に先立って永井均氏を囲んだ議論のコア的テーマは「記憶/<記憶>」という根源的な謎→「今他の<私>になったという事実を示す痕跡/記憶は存在しない」という問題ダイレクトに関わる。
400字換算で約320枚分完了しているが、現在中期的にかなり重大かつ複雑な問題に忙殺されているので執筆作業が遅滞している。当面少なくとも半年程度は問題解決と執筆作業の両立を最低限維持しなければならないという課題に直面し続けるだろう。
10102023
昨夜谷口一平さんとまんまのサンマMk-2さんと3人で飲んだ牛タン専門の居酒屋だが、 相変わらずどの品も非常に美味かった。(やや大袈裟に言うと)まんまさんがどんどん頼むので味わいの勢いがついた。やはり美味いと話にも花が咲くようだ。
10092023
つまり力あるいは運動が不可欠→超越論的構成よりもさらに基底的な力/働き→だが超越論的構成と不可分でありそのためそれと同じものだという不可避的に錯覚が生まれる→静的に見られた私たちの実在的な世界(という不可避な錯覚)
10072023
ここで現実性とは無内包の現実性であると同時に〈私〉の独在性でもある。
落差の共存とは現実性と可能性の共存→私たちの世界
10062023
上記「落差の反復という運動」をより厳密に言い換えると「落差とそれら落差の共存の反復的な産出という運動」になる。
「とそれら落差の共存」の付加がポイント
かなり参考になる。「現に」という現実性の力の全方向性/方向の無限性の幾何学的可視化の事例②
10052023
「現に」という現実性の力の全方向性/方向の無限性の幾何学的可視化の事例
マイナス内包的次元を認めるかどうかは保留にしても、そうした原理的に不可視に思われた次元もより高次元においてその姿を現すというイメージの例 多様体理論では基本的な探究方向
10032023
ただしこの論点の含意を問題作成者と(哲学科志望であっても)受験生が読み取るのは極めて難しそうですね。
多分的を得た可視化
究極の問題は、この①「本体」としての「落差を孕んだ反復」という「運動/力」と②「現に」という力としての純粋現実性/<>の関係性になる。落差を孕んだ反復という運動/力は、純粋現実性の働き方/様態としての全方向性=無方向性を持ち得るのか?
全方向性/方向の無限性自体は幾何学的に可視化できると思われる。動的イメージとしては自然対数(ネイピア数e)螺旋の反復運動
現在執筆中の仕事において、これまで永井均氏の著作とツイートからは幾度もまとまった分量で転載引用してきたが、昨日始めて入不二基義氏のツイートと著作からまとまった分量の転載引用を行なった。これまでの通奏低音の形からいよいよ記述の表面に浮上してきたことになる。転載画像①(以下続く)
10022023
その最も基底的な次元/場における――そして #カント が『 #純粋理性批判 』において語っていた――超越論性とは、「現に可能になる」という事態それ自体の力であるだろう。
10012023
レビューに「記述の運動としてのリアルタイムプレゼンテーションだからこそ思索の凝縮がなされ得た。」の一文を付加した。
もしそれが「現に」なされたら、一種の奇跡――開闢の開闢に「なる」。それ(その生成という事態)は無内包の<力>それ自体の次元で、同様に無内包である<否定>の次元の母胎/マトリクスであるだろう。ここで「一種の」はレトリックであると同時に抹消不可能な「記述の現実性」を示している。
930.2023
「いや」は余計でしたね
https://youtube.com/watch?v=O99Zy-6YwoU…
堀田昌廣氏と論争?があったようだが、現代量子論における局所実在論(局所性と実在性)または「実在」について理解する上で最適な準備になるだろう動画 つまりアインシュタイン以来の歴史を踏まえて現代物理学において実在がどう考えられているかを理解するための動画
いや全然的外れなだけでしょ
少なくとも「直観がある」までは同意できます。それ以後は場合によっては(あるいはそのほうが通常かもしれません)逆の「道徳的によい(通常の道徳空間に適合的)」になり得るのではないかと思います。
『万葉集』『貧窮問答歌』の時代から、酷税への民衆の恨みに勝てた政権はないよな。
読者の皆さんも一つの見方として何かしら参照していただけるとさいわいです。
『問いを問う――哲学入門講義』のレビューがアップロードされた。 https://amazon.co.jp/gp/aw/review/4480075739/R2OOB0OJ48CUOL?ref=pf_ov_at_pdctrvw_srp…
その哲学思想の既存のシステム→還元先としてデリダや精神分析があるということ。東浩紀氏自身もこの還元の力に気をつけてほしいと思う。当初からあまりにデリダと精神分析との付き合いが密なので。だからこそ先に訂正可能性の哲学を巡って『世界の散文』等のメルロポンティ晩年の哲学に言及した。
哲学思想またはより広く既存のシステムへの還元は訂正可能性とは真逆の力として訂正可能性の力を消去する。
注意→今後探究をデリダや精神分析(その他所謂現代思想)に還元してはならないと思われる。誰がやるにせよやったら台無しになる。
別の話でもありますがどちらも言えそうな気がします。
絶えず問題になるが、「X空間」の規定(性)ほどわけがわからないものはない。動きと力それ自体だから当たり前なのだが。
X空間の書き換え/変換という動きと力
権利の行使もそうだと言えるだろう。
やるかやらないか。そこにある残酷極まりない亀裂と深淵
929.2023
注意→今後探究をデリダや精神分析(その他所謂現代思想)に還元してはならないと思われる。誰がやるにせよやったら台無しになる。
言うまでもなく(今のところ人間が企てている)遺伝子改変技術等の不可逆的で半永久的な「人間改変技術」のコアもAI/人工知能である。「生体政治工学」の問題
訂正→「なってしまった」 ここでの最大の武器としてのグローバル監視テクノロジーはより広く「AIをコアとしたテクノロジーの総体」と言い換えてもよい。
アメリカ発「リベラル」の最大の武器がグローバル監視テクノロジーになっしまったこと以上に苦く痛い皮肉はあまりないだろう。もちろんこの皮肉は我々の最大の災厄でもある。
まだ「社会学者」がトレンドトップなのか。かなり根深い動因が働いてるようだな――
「接近(記述)不可能な<現実=全体>と<規則のシステム=全体>の不可能性」「<非-人間の身体non-human body>領域の生成フィールドとしての非限定無限(判断)領域」というテーマの考察をベースにして、遺伝子改変技術による介入をその核心的な可能性として含む「生体工学的介入」を論じている。
sc.chat-shuffle.net/articles/articles/13035758…
 上記論文「<生体工学的介入>の分析論――哲学的探究としての「メタ生命倫理学」構築の試み」(日米高齢者保健福祉学会誌 (3), 249-260, 2008-03)
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』の登場する & 登場予定の固有名に東浩紀とベンヤミンを付加した。
「クリプキを巡って」を東浩紀『訂正可能性の哲学』80頁「同じ何か」への言及と2008年に書いた論文「〈生体工学的介入〉の分析論」におけるベンヤミン「暴力批判論」「神話的及び神的暴力」に関する記述の活用によって大幅に改訂した。永井均氏の『転校生とブラックジャック』41頁からの引用もある。
928.2023
政策担当者は総て、政策の運用対象者総てをナメている(またはナメきっている)と言っていいと思う。つまりそれが総ての政策の揺るぎない本質だろう。その一つの極限例が(かなりリスキーなので明示しないが)アルファベットの最後から4番目の文字で始まるあの機関だろう。
記述の運動としてのリアルタイムプレゼンテーションだからこそ思索の凝縮がなされ得たという点が核心だと思います。
②(承前)「本書はまったく妥協なき哲学のリアルタイムプレゼンテーションだからだ。つまり本書は入門書というよりむしろ(もちろんそれ自体で高次元の入門書なのだが)、これまでの入不二基義氏の全探求が凝縮された作品なのである。今後も吟味賞翫したいと思う。」以上です。
ちなみにこのような内容です。①「これほど高密度の哲学の入門書はこれまで皆無だったし今後も書かれることはないだろう。(読者それぞれの一期一会の哲学書との出会いにおけるその哲学書を除いては。)その理由は本レビューのタイトルが語っている。」(以下続く)
927.2023
はい。しかしまだまだこの先に非常に長い道のりが、控えていてゾッとしますが---
小野伸二は日本人サッカー選手で唯一ジダンと同質のものを感じた。
@irifuji先程「付録」を含めて全編読了しました。反転、反復、運動、私たち、夢といった巨大な一連の問題系が浮上してきますが探究作業に終わりはないと思われます。本日アマゾンに極々簡潔なレビューを投稿しましたがなかなか反映されないようです。いずれ反映されると思いますが。
より正確には「〜が反復することを願うことが可能であること」において
多分「〜が反復することを願うこと」においてすでに「この私の夢」は消失または消去されていると思われます。それが「夢から醒めていること」でしょう。この後に結論的なことも思いつきましたがまだ仮説なのでまた後程。
返信先: @irifuj
先程「付録」を含めて全編読了しました。反転、反復、運動、私たち、夢といった巨大な一連の問題系が浮上してきますが探究作業に終わりはないと思われます。本日アマゾンに極々簡潔なレビューを投稿しましたがなかなか反映されないようです。いずれ反映されると思いますが。
926.2023
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』 第3章の目次項目改訂版 「クリプキを巡って」に加えて、「安部公房/トポロジカル・ループ」および「人称という<次元/場>の出現」の節タイトルを付加して元記述を増補改定した。#哲学
925.2023
https://fukudamura1923.jp関連してこの映画は観る予定。この事件を深く取材した良質なジャーナリストが強く推していた。
なるほどデリダの批判の枠組みは根本的ですが非常に(よく言えば)包括的ですので彼から見れば『狂気の歴史』はそうなるのはわかります。『狂気の歴史』は哲学書というより何か別の記述ですね。
「ハイデガー=ニーチェ的〈かつ〉ヘーゲル的」がちょっと理解困難ですのでいったんその方向の議論は離脱します。
本日時間の合間を縫ってようやく『問いを問う』第5章まで読了しました。入門書というよりむしろ(もちろん高階での入門書ですが)これまでの入不二さんの全探求が凝縮されたコンパクト版だと思いました。今後も賞翫したいと思います。
了解です。私もそのように考えています。
(承前)アンフェアだとも言えます。言うまでもなくフーコーは「言説の秩序」そしてそのシステマチックな規則性と力の次元を焦点化していましたので。
ただし周知のようにそれは『狂気の歴史』よりかなり後の『言説の秩序』『知の考古学』以降の話なので「言説のレベル」のテーマはそのままでは「狂気」を巡る『第一省察』固有のの問題圏とはずれがあると思われます。
すれ違いだと思いますが、そのすれ違いはデリダとフーコーのすれ違いとフーコーのデカルト『省察』の問題次元のすれ違いという二重の意味において言えるのではないかと思います。ただしフーコーへの先のかなりネガティブな見方はすれ違いをされた側に一方的に立っているという点でフーコーに(続く)
デリダとフーコーの決裂の重要なきっかけが(『狂気の歴史』に収録された)デカルト『第一省察』冒頭部分の解釈を巡る論争なのだとすればとりわけデリダにとって不幸なことだっただろう。あの論争におけるフーコーの論のつまらなさ(当該箇所の『省察』の記述に対する)的外れさは目に余るものなので。
(承前)(その場合端的な「私たちは言う」は「言語性の枠または言語的最外枠の観点」を逸脱すると考えられます)という問いがあると思います。言い換えれば、「ことができる」の付加によって現実性と可能性の次元が架橋されるのではないかということですが。この辺りは最重要の論点で簡単ではありませんのでいずれ来年にでも実際にお会いしてお話をしてもいいのですが、「私たちは言うことができる」の「ことができる」は除去不可能なのか? つまり「私たちは言う」では「言語的最外枠の観点」にはなり得ないのか(続く)
顔アカウント氏と魔神プー氏の両氏にはありがたい。しかしまたしても厄介な作業予定を背負ってしまった(笑)
先程RTした顔アカウント氏と魔神プー氏のツイート&私の返信ツイートは、多忙な時間の合間を縫っての作業になるのでかなり後になる予定だが作業中の仕事に引用転載してさらに考察して記述することになるだろう。しかし作業の難しさと多さに愕然とする。
私のこの探究指針は多分最重要な問題を孕んでいると思いますよ。
「〜が反復することを願うこと」が既に「夢から目が醒めていること」だと考えることができます。同時に「反復することを願うこと」が「夢から醒めていること」の(超越論的な)構成条件だと考えることができます。これら様相の両次元(現実性と可能性)の絡み合いについて今後さらに考えてみます。
924.2023
若干20歳弱の若造がもしデリダの講演直後にガチな哲学的質問をしたら随分生意気に見られるかもしれない。だが私はまさにそんな状況で(デリダではなく)ユルゲン・ハーバーマスにそうしたことがある。もちろん彼は真摯に答えてくれた。私の問いはまともなものだったに違いない。
「クリプキを巡って」は昨日かろうじて作業終了 それにしても(どれも大変重要だが)雑務が多すぎる。
923.2023
第4章 Interlude2 までの叙述構造の第3章に「クリプキを巡って」を、また第4章に「導入 <力/働き>の次元へ」を付加した。
踊る阿呆に見る阿呆w 踊る側の低レベルな馬鹿騒ぎと「欺瞞」を指摘する側の単細胞的な薄っぺらさ
ソーカルは哲学的(広く人文社会政治的)なセンスは凡庸そのものでしたね(笑)
この槙野氏のツイートに始まる記述は最終的には 動的な構造化の運動としての<力/働き>の次元(入不二基義氏の言う「現実性の力」)に接続される。
登場予定の固有名(ツイアカを含む)に槇野沙央理/Saori Makino@saoriqing氏を付加した。
922.2023
とりあえず何とか前草稿的記述群にまとまった。草稿ですらないバルク記述群だが断片的ではない。
あまりに基底的な問題群が凝縮されているので、もしさらに作業が可能だとしても(良くも悪くも現時点では)非常に削ぎ落とされた記述にならざるを得ないだろう。
先程このやり取りを素材にして、さらに入不二基義氏の『問いを問う』のある一連の記述と突き合わせて展開しようと思いごく僅か記述に着手したが、当然ながら極めて難しいのでまったくどうなるかわからない。試みと記述をすべて捨て去ることはないだろうが---反転図形の見え/意味と図形それ自体という問題と通底しますね。
クリプキのこの記述に胸をつかれる思いをしてからもう三十年ほどになる。
先が見えすぎるというのはリスクが大きく厄介なものである。
「矛盾を矛盾ではないとして解消する」とは、「この私を共同体の任意の(完全対称的な)メンバーに解消/還元するということである。
クリプキによるこの自己矛盾的な訂正可能性を東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』と突き合わせて吟味すると面白いと思う。矛盾を矛盾ではないとして解消するのかまたは矛盾を引き受けて他者へと開いていくのか。
921.2023
この付加が可能であったことこそが、クリプキの天才を証している。
『ウィトゲンシュタインのパラドックス――規則・私的言語・他人の心』における訂正可能性に関するクリプキの記述② ところがクリプキの独創性は、この共同体の内部と外部の分割のロジックを「個人の自分自身に対する訂正」という思考実験によって自己矛盾的に瓦解させている点にある。
『ウィトゲンシュタインのパラドックス――規則・私的言語・他人の心』における訂正可能性に関するクリプキの記述①(強調は転載者)クリプキの論のコアをなす「共同体の内部と外部の分割」は嘗てウェーバーが『古代ユダヤ教』で批判的に分析した。クリプキのロジックはまさにユダヤ教のそれである。
唯一無二のファイターであるアントニオ猪木が実践した王者のプロレス
プロレスのエンタメ化の意味/毒抜きと古舘伊知郎起用によるプロレスの語り部の排除 →関連して左翼と右翼の決定的な違い
中国とインドの未来はアングロサクソンユニテリアンの追随により切り捨てられた(特に中国)自文化のポテンシャルをどれだけ再奪還できるかに懸かっている。テクノロジー次元のみではユニテリアンパラダイムの凌駕はできない。対してロシアは自文化のポテンシャルを最大限保持活用して対抗している。
現在グローバル地政学は東インド会社以降の後発「アングロサクソン・ユニテリアン」の岩盤で「動いている」が、テクノロジーに依存し過ぎている点でより古い「非ユニテリアンパラダイム」/バチカン・イエズス会の岩盤に完全に取って代わることができていない。鍵を握るのがロシアギリシア正教である。
920.2023
単純に取れないというか非常に不十分な少ない時間しか取れないということです。
現在一定時期は個人的事情が重なって(悪い話ではいのですが)非常に多忙で読む時間も書く時間も取れないのですが、可能な限り早い時期に入不二さんの本を読み進めたいと思います。
919.2023
本論は永井均氏の直近の探究成果を掘り下げる形で<私>の独在性/実存から探究した場合本質と実存という問題はどうならざるを得ないかという探究だが、この点が十分理解されていないコメントがあった。本質と実存|永澤 護 /dharmazeroalpha
918.2023
私の母方曾祖父の佐々木綱親と佐々木濱子夫妻はユニテリアンであったと推測され、両人は現在青山霊園に永眠している。佐々木綱親は、大村益次郎と伊達宇和島藩時代からの関係があり、蕃書調所・京都兵学校=兵部省大阪兵学寮の他に、大村の数学塾鳩居堂で1856-1862に教授していたと思われる。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9…
アイザック・ニュートン、ティム・バーナーズ=リー(WWWの開発者)などに加えてウィトゲンシュタインもユニテリアンとされている。日本では福沢諭吉が有名。つまり慶応大学はユニテリアン系
ムハンマド・ビン・サルマーン・アール=サウード(Mohammad bin Salman Al Saud)の存在が決定的
8年前の記事だが、地政学的な認識に関しては大枠は変わらないまでも部分的な変化が見られる。例えばサウジアラビア
ここでは綱覇氏が一例だが、彼の様に突出した知性はアントニオ猪木に深い関心を抱き続けるようだ。
917.2023
ユニテリアン・アントニオ猪木・古事記 私の友人綱派佳秋氏/Tとの対話 2015/6.11-2015/7.2(一部改変) |永澤 護 /dharmazeroalpha #note
916.2023
まさに #アリストテレス の「ロゴス/説明方式」と同様に「我々が言う/呼ぶ」の地平を言わば死守したということで、だからこそ東氏が拘り続けた「家族(的類似性)」の地平に接続されることになる。アリストテレスとクリプキを巡るこうした問題については現在執筆中の仕事で詳しく記述している。
了解です。明示的な記述に限っても、入不二さんにとって遅くとも『相対主義の極北』以来の中枢問題ですね。この「私たち/我々」の問題は私にとっても遅くとも90年代始め以来今に至るまで中枢問題になっています。
既述の様に、東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」はメルロポンティ的なベクトルでデリダを脱一般化/脱構築して読み替えたように見えたが、同様なラインにおいてクリプキ的なベクトルでウィトゲンシュタインの家族的類似性を読み替えたと言えるかもしれない。ただしポイントはあくまでクリプキは(続く)
915.2023
このところかなり多忙なため入不二さんの『問いを問う』はまだ第2章までしか読了していませんのでこれからが本番です。本命の深い議論の展開がたいへん楽しみですが、少しずつ間歇的にしか読めないと思います。
はい。もちろんポパーとは同じではなく、以前からの方向性の延長で東さんの訂正可能性はかなりの進化型だと思われます。非常に重要な意義のある仕事ですね。
東浩紀氏の場合言語ゲーム一元論的に解された『探究』のウィトゲンシュタインがポパー優位的に位置付けられ論を補強していますが、そのウィトゲンシュタインはあくまでもコインの表面(裏面は無内包次元)に過ぎないと思います。
カール・ポパーについて私が何かを言えるのは学部1年時に主要著作の殆どを集中的に読んだから。その後ハーバーマスの主要著作の殆どに進んだが特に『認識と関心』は根底的だった。ハーバーマスとは今は無き恩師のはからいで来日した折恩師や先輩と居酒屋で対話した。超気さくな方だった(笑)
地政学的な説明は省略するが、『開かれた社会とその敵』のカール・ポパーを媒介項として、少なくとも近未来における東浩紀氏の政治的スタンス/実際の発言とその方向性は反ロシア的な方向にシフトしていくだろう。政治的にバランス可能だろうか? 既に乗り越え不可能な岩盤の歴史が存在しているが。
「訂正可能性の哲学」の最重要の起源の一つであるカール・ポパーはジョージ・ソロスが師と仰いだ哲学者だが、彼の「反証可能性」は依然として可能性/意味の地平に留まっている点で、最近著で入不二基義氏が分析している(通常ポパーが批判しているとされている)「検証主義」の枠内にある。
多分『知覚の現象学』の原書自主ゼミ終了後に『見えるものと見えないもの』原書自主ゼミに移ったに違いない。まあ彼等なら当然そうだろう。
メルロポンティ『知覚の現象学』はやる気のある学部生がいきなり読むような場合にも適しているように書かれていると思う。学部時代彼のアパートで話したこともあるが、富松保文氏は学部時代から友人と二人で『見えるものと見えないもの』の原書自主ゼミをやっていて一生懸命下訳を作っていたな。
914.2023
ハイデガー(哲学)の心臓部とは、先に投稿した抜書き画像①の記述とセットでということ。
ハイデガー『カントと形而上学の問題』21歳時の抜書き② ハイデガーの心臓部
久保元彦氏がカント『純粋理性批判』における「自己触発」の探究を「(最後の)謎」としてマークし同時に回避/保留した箇所 出典『カント研究』創文社 1987年 133頁 注(11)
つまり「差延」の形而上学で、この形而上学はカントが批判したタイプの「自然的な(理性の)素質」としての形而上学である。
この点では完全にこの運動を一般化したデリダはハイデガーよりむしろ大幅に後退している。
カントの言う「自己触発」は、根源的な<働き Aktus>の形式/様態なので、その形式性の探究に限定して見ればタテ問題にとどまるが、<私>の実存/現実性の運動として見れば不可避的にその探究はヨコ問題とタテ問題の関係性それ自体の探究という究極の(久保元彦氏すら回避した)探究になる。
913.2023
「思想」を対象化した結果の対象としての「思想」の単なる提示だけではなく。今のところそれはなされていません。
つまり私は「「たとえ過去の事例であっても、いまも流れているのでなければ、それは(思想ではあっても)「哲学」ではない」に対するあなた自身の「いまも流れている思考の運動」の記述が見たいと思っています。
先のコメントとは私の引用RTのコメントですが。
先のコメント理解して発言していましたよね?
もちろん。ただし「この考え」とあなたが対象化していれ場合の「考え」が「思想」だと言っています。もしあなたがその所作によって真に「この考え=思想」を考えているならその行為が哲学(すること)になります。
ポイントは「産業(廃棄物)」→最悪の最悪の場合プルトニウムの様な核分裂生成物に類比的なものになる。
詩形式だがそれなりの記述量になった。
一度アップしたが、以下のサイトに動画だけではなく、歌詞もコメント欄にずっと真夜中でいいのに。 ZUTOMAYO氏によってアップされている。
永井均氏の山括弧〈〉の起源はハイデガーとそれを継承したデリダの形而上学である。だがこの山括弧〈〉は、ハイデガーが言うような「存在の故郷 Heimat」へと素朴に帰還するものではなかった。
もちろんそのハイデガーの天才性はウィトゲンシュタインの天才性とはまったく異なる。学部時代のノートの『カントと形而上学の問題』からの抜き書き。デリダと並んでこの時期の抜き書きはこのハイデガー作品からが最も多い。 もちろん『存在と時間』を始めとして晩年の作品も含めてハイデガーはかなり読み込んだ。天才なのは間違いない。
912.2023
つまり「いまも流れている思考の運動」としての「思想」は不可避的に「哲学」であるほかない。単なる対象としての「思想」は粗大ゴミに過ぎない。言い換えれば、今ここでの運動を欠く「哲学」は粗大ゴミに過ぎない。厄介なことにこれらのゴミは必ず悪性の産業廃棄物になる。
「たとえ過去の事例であっても、いまも流れているのでなければ、それは(思想ではあっても)「哲学」ではない。」入不二基義『問いを問う―哲学入門講義』18頁 哲学と思想を分かつ決定的な言葉だが「思想」が否定されているのではない。「思考の運動」(同)を欠く現代思想を含む思想は死骸なのである。
断続的にかなり推敲を重ねたが「Interlude2 手におえぬ痛みの中で 映画『キャラクター』主題歌: ACAね(ずっと真夜中でいいのに。) × Rin音 Prod by Yaffle 『Character』歌詞 & 詩形式のコメント」の記述がようやく完成
この場で何人かの役者についてただ「〜は素晴らしい!」とバカみたいに呟いてきたが、近作に至るまで作品を観るにつけて、ますます「永野芽郁は素晴らしい!」と思っている。
人間も神の一部/様態だからそれが可能などというのは、スピノザの様な壮大な論点先取の体系なら当たり前に出てくる「帰結(定理)」つまりトートロジーに過ぎない。
カントの『純粋理性批判』を要となる局面から一言でまとめるなら、「人間が神ではない」ことの証明となる。または「人工汎用知能/AGIを含む有限的存在者には知的直観が不可能」なことの証明となる。知的直観は物自体を直観形式と概念形式なしに観る。つまり時空も言語もなしに。
一度でも見たらファインマンという名前と驚異的で多彩な業績とあまりにも気の利いた警句や「冗談」とセットでその顔は忘れられなくなる。何はともあれファインマンは偉大ですね
ここで語りparoleの活動の不断の創造性についてメルロ=ポンティが述べていることは 『訂正可能性の哲学』で東浩紀氏が言っていることに共鳴すると思われる。デリダはメルロ=ポンティを批判していたといえるが、東氏はデリダをメルロ=ポンティ的に読み替えているともいえる。
911.2023
デリダがどれほどハイデガーを読み込んだか、あまり知られていないかもしれない。フーコーの場合は同様のことを自分で言っていたと記憶しているが。ジャック・デリダ『声と現象』から|
デリダ「差延」概念の起源 学部3年時のノートからね抜書き ジャック・デリダ『声と現象』から②|
昨日投稿した学部時代のノートのメルロポンティからの抜き書き。『世界の散文』や『眼と精神』を経て『見えるものと見えないもの』へといたる晩年の彼の哲学が要約的にわかる。デリダは音声中心主義批判でこれ(パロール/語りの特権的位置づけ)を否定したかったのだろう。つまりメルロポンティを。
あれだけラカンが広めた/広まったラカンの言説の禍根だとも言えるしまた彼の見通しが当たったとも言えますね。
『永井さんを「社会学者」と思い込んで党派的に(社会学界隈/あちら側として)「叩いている」』→ここまで厳密に限定しているのだが、この複雑な限定がどうして「無知無学で愚かな大衆」なるのだろうか。実際ここには非常に微妙な政治的ニュアンスもあるのだが。
というか「社会学叩き」界隈の人には「大衆」というラベリングは全く相応しくないだろう。
面白いコメント 楽しくないが
だからこそ反転して「社会学叩いている側」になるのでしょう。
永井さんを「社会学者」と思い込んで党派的に(社会学界隈/あちら側として)「叩いている」方々がたくさん見られますね。
909.2023
もし本当に変更したらそれこそ本当の覚悟と気概を感じますね 世界は変わる(笑)
一定数というよりはるかにウジャウジャいますね。それ自体が非常に核心の福祉の問題になるほどに。特にこの国は生活保護なんかの公的扶助給付を巡るウジャウジャ感が酷い。社会福祉的な用語では遅くとも19世紀英国の新救貧法以来の劣等処遇問題ですが。
大学の標準テキストなんかになっている医療倫理学とか生命倫理学とかの本の類のつまらなさ内容空疎さは呆れるほどです。
大森荘蔵/その最深部の問題 増補改訂版|永澤 護 /dharmazeroalpha
保管している学部時代21歳時のノートのデリダ『声と現象』からの抜書きだがかなりの量がある。現代哲学関連では他にハイデガー『存在と時間』『カントと形而上学の問題』フーコー『言葉と物』メルロポンティ『世界の散文』『眼と精神』等が目立つ。しかしハイデガーとデリダの分量が図抜けている。
転載④「換言すれば、常に閉鎖の基準を訂正可能性に開いているという開放性はその都度の開放性の打ち止め=消去という現実に裏打ちされていなければならない(さもなければ閉鎖か開放かという二項対立の無限背進に陥る)。」 ただし以上の論点は東浩紀氏の訂正可能性の哲学と両立し得ると思われる。
転載③「つまりその都度柔軟に訂正していくというよりむしろその都度柔軟性=可塑性つまり訂正可能性を消去していく過程だ。」転載②「この適宜打ち止めにする実践の現実は《我々人間》の現実そのものだが一見それと異なるカント的定言命法(この場合は「異邦人を受け入れよ」)と表裏一体である。カントに着想を得たデリダの《歓待の哲学》につながる。」
転載②「この適宜打ち止めにする実践の現実は《我々人間》の現実そのものだが一見それと異なるカント的定言命法(この場合は「異邦人を受け入れよ」)と表裏一体である。カントに着想を得たデリダの《歓待の哲学》につながる。」
転載①「上記記事の文言「閉鎖の基準を個々の局面において柔軟に「訂正」していくような実践の可能性のことである」の「実践的」がポイントである。つまり閉鎖の「基準」に関する議論の無限背進(開放と閉鎖の二項対立の帰結)を認めず実践的に適宜打ち止めにする実践の現実だ。」
それは凄いです。合評会楽しみにしています。リアル参加いたします。
物凄く高密度の探究ですね。明後日から少しずつ読み込んでいきます。
「かつ(同時に)がキーポイントのさらに要」
908.2023
なおここで「様態」とは、入不二さんの言う無内包の「現実性という力」それ自体の形式でもあるものとして。
ここで「方向(性)」(を認めるまたは認めない)とは①純然たる可能性の次元においてかつ②無内包の現実性の様態においてということで、おそらくこれら両側面の不可分な方向(性)と「現前性の哲学それ自体」は両立/共存不可能だと推測されます。
かなり間が空きましたが、この「すらなさ」に何らかの「現前性の哲学それ自体」の独立性または固有性を認める上でのキーポイントは永井さんの言う「一方向性」自体さらには「方向性」自体(入不二さん的な方向を含めてそもそも認めるか否かを含めて)の探索だと思います。
平易に見えて実は前代未聞の一文 「本書もまた哲学書であるから、終わり(答え)に向かって進むのではなく、始めよりもさらに手前(問いへの問い)に向けて遡り続けることになるだろう。」入不二基義著 問いを問う――哲学入門講義 011頁から引用
「T:ブレラン続編は短編3部作を作っておいたのはミラクルでした。 私:それが救いでしたね! 命綱 T:それで救われました。 私:まさに。あれらは素晴らしい!」
私の言葉「先の「ケミストリー」ですがユダヤ人の抽象的なスキームまたはアルゴリズムに「アメリカ」が化学反応するというのが私の当初からの仮説です。スキームまたはアルゴリズム自体はもちろん商法ではないです。ユダヤ人のアルゴリズムにアメリカが化学反応して「ユダヤ人の商法」になる。」
私の言葉「引用はそれぞれ素晴らしいのですが、あの偉大なカルト作品の続編じゃない別口でやるべきだったのです。私もカルト作品としての続編を無理とは思えど切望しています。」
綱派氏の言葉「T:キリスト教の呪縛に無自覚な監督では芸術作品は無理。僕は単にこの監督アホやと思って観てました。岡田氏もそう思ったから商業的な成功策を指南したのでしょうね。僕は芸術作品にしたかったという監督の野望は読み取れなかった。そこまでアホなんすか…。」
私の言葉「2049はキューブリックやタルコフスキーに憧れたが失敗した(中略)キューブリックやタルコフスキーに迫る「歴史的芸術作品」にしたかったのです。それが失敗したのは当然です。偉大なカルト作品の続編でもあろうとしたので。にもかかわらず「カルト作品」であることを拒否したのが自己矛盾」
全文公開に切り替えた。綱派氏の言葉「僕が興味を持っているのは、プロテスタンティズムの倫理とアメリカ的なるものとの差分です。この差分にしか興味がないと言ってもいいくらい。で、その差分をもって「ユダヤ人がアメリカ人になったとき」のような状態変化が生じると思っています。」
参考 先の記事と同様私の友人綱派佳秋氏との対話記事(ほぼ全体がSNS上の私信の交換なので有料になっている)綱派佳秋氏の言葉「T: #マクドナルド とFacebookがナラトロジー的に全く同一の構造を持っていることが核心です。」
記事の末尾「ニーチェは「ショーペンハウアー革命」以後の「通常科学」のパラダイムでショーペンハウアーが真の科学革命(中略)ニーチェが世界史を貫通する深層レベルの巨大なイデオロギー装置群批判の先駆けとなったのも、このショーペンハウアー革命をへてはじめて可能になった」
上記③に続く④「深層とはつまり資本主義の動力因として組み立てられた超地政学的-戦略的装置の総体であり、グレーバーはそれを帝国の基軸としての軍事=鋳貨=奴隷制複合体というリアルな負債の論理のここ5000年の歴史的展開として記述している。」
「ユダヤ-キリスト教倫理」とは資本主義の動力因の産物に偽装的なレッテルを貼り付けたものだといえるが、リファーしているのは深層レベル。この場合資本主義の定義は『プロ倫』のウェーバーより射程が広いのでウェーバーが限定した「プロテスタンティズムの倫理」としての動力因とはずれが生じる。
②有利子貸付に関するキリスト教の倫理も、結局はカトリックとプロテスタントを問わず旧約的な「同胞に対する対内倫理と異邦人に対する対外倫理の分割」に貫かれていた。ウェーバーの批判の射程はそこまで届いている。互いに絡み合った優生主義と人種主義の問題が浮上してくるのもこの地点。
転載①「ニーチェは世界史を貫通する深層レベルの巨大なイデオロギー装置群批判の先駆けであり、その視点からはマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』における部族的・共同体的同胞倫理(対内倫理と対外倫理の二項対立的分割)批判も同じカテゴリーとなる。」マックス・ウェーバー(ドイツ語圏だから本来ヴェーバーと発音表記すべきだが長年の習慣でウェーバーにした)は社会学という枠組みをはるかに超えた社会学総ての祖であるが、社会学をディスってる人は彼に出会って一度は巨大なショックでわけがわからない謎的状態に落ち込んでみるといいだろう。
ライアン・ゴズリングは素晴らしい役者!!
東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』(未読)が出たようなので、メモ的に昔の記事を再投稿。ヘッドライン画像は軽井沢アウトレットモール 東浩紀氏の『観光客の哲学の余白に(26)訂正可能性と反証可能性』への簡潔なコメント
マックス・ウェーバーによる官僚制の根本規定→①規則にもとづく職務遂行、②文書にもとづく職務遂行、③明確な職務権限の原則、④階層的権限体系、⑤与えられた職務について徹底的な訓練がなされる、⑥専従者として働くことが求められる。
マックス・ウェーバーに関して(カントと同様に)全くその通りだと思う。もしウェーバーがいなかったらと思うと巨大な戦慄が走る。(社会学が存在しなかっただろうというのはデュルケムも合わせて言えるが)。官僚制の根本規定だけとっても。それは水がH2Oであると分析されたようなものなのだ。
今後1年間が正念場になる。
907.2023
この場合「そのように」の中身を分析すると「事後に謝らなければならないまたは謝ることが妥当な何か/行為を帰結させるような形で(または帰結させるに十分だと思われる程度に)」といった具合になる。すると謝ることが関与するのは「そのように酔ってしまい為した行為」という全体過程だろうか?


© Rakuten Group, Inc.